仮想報道『ウィキペディアの使い方』
自分の通っている大学のキーワードであり、自分自身大きくその影響を受けている言葉に、『知識の構造化』という言葉がある。これは自分なりの解釈ではあるが、知る、手に入れる情報のストックのされ方には二種類あると思う。
一つは、その文字情報を記憶するなり参照するなり何らかの方法によって手に入れ、それをあたかも自分の知識であるかのように利用する方法。
そして、もう一つは、その知識を自分の中に理解して取り入れ、自分なりの解釈や応用も加えた上で利用する方法である。
言うまでもなく望ましい知識のあり方としては後者なのだが、実際我々が知識を習得する際、その全てを後者の方法で取り込んでいるというわけではない。
そして、我々が前者の方法でのみ情報を取り入れ、そして使うことが、現在増えてきているように思える。
もう聞き飽きたかも知れないが、現在は情報化社会であり、我々が手にする文字情報は非常に速いペースで増え続けている。
メール、週刊誌、インターネット。それらを読むことで、我々は有名人のスキャンダルから外国のテロまで、非常に多くのことを知った気になれる。だが、一体そのうちのどのくらいの情報に対して、我々は自分なりに考えを加え、吟味した後に取り込んでいるのだろうか。
ウェブ上の百科事典サイトである『Wikipedia』はある意味では現代の情報の多さを象徴する存在だとも言える。自分も含め、多くの人がちょっとした調べものや資料探しの際にこれを使っていることだろう。
だが、ウィキペディアは単なる情報の参照先としてそこにあるわけではない、と思う。ウィキペディアは、その情報の扱い方に独自の方針を持ち、その運営者のみならず参加者までもが、『知識』のあり方について模索しているのだ。
例えば、本文を作成するための議論の場所として用意されている場所『ノート』。しかし、そこではたびたび書き手ごとの立場、あるいは信条同士がぶつかりあった論争が起きる。
最終的に表に出てくる記事は比較的中立的で、こぎれいにまとまったものが多い。だが、議題をより深く吟味するため、現状を深く、生々しく考えるためには、そういった激しいせめぎ合いの中を覗いてみるのも、情報の一つのあり方だと思う。
ウィキペディアを単なる一時的な情報の参照源としてだけではなく、興味のある議題の項目を覗いてみてはどうだろうか。そこには、今まで見ていたウィキペディアの整然さとはまた別の面白さがあるかもしれない。




