『日本人の再生を考える』
[サンデー毎日]
この時期になると、毎年公営放送では戦後○○周年記念の戦争に関する特集が行われる。今年は戦後六十二年だと言っていた。テレビの中では、生き残った人たちが、あるいはもっと若い人達がこのようなことを何度も繰り返している――『私達は、戦争の恐ろしさを語りついでいかなければならない』。
こういった特集を組み、一年に一回でも、起こった戦争を振り返り、戦争を語り継いでいくという志を新たにする。それはすばらしい事だと思う。自分も『戦争は恐ろしいもので、語り継ぐ事によって、こんなことが起きないようにしよう』と言えるくらいの知識は持っている。
だが、それでも、自分は戦争の特集というものをやっているのを見ると、『語りついでいこう』とテレビの中で言っているのを見ると、どこか奇妙な感じを覚える。
語り継ぐという行為によって、本当に戦争は語り継がれるのだろうか。語り継がれた自分は、それを子孫に語り継いでいけるのだろうか、あるいはその権利があるのだろうか。そんな違和感である。
そんな時期であることもあってか、作家の五木寛之さんと考古学者の大塚初重さんの戦争に関しての対談を記事にしたこの記事に目が留まった。
大塚さんは十九歳で輸送船を撃沈され漂流、五木さんは生まれてまもなくから十五歳まで朝鮮に住み、いわゆる『引き揚げ』を体験した。
『自分は済州島沖で一度は死んだ身なんだ』(大塚さん)『生き残った人間は悪人である、という意識をそのころからずっと抱えているんです』(五木さん)こういった言葉が印象深かった。自分を助けるために、結果的に他人を何人も見捨ててきた。そんな体験談はあまりに戦後となった今の時代とはかけ離れている。
業、あるいはカルマといった方が馴染みがあるだろうか。その重さは、語り継ぐ事によって語り継げるものなのだろうか。自分自身の体験によってそれを背負う事以外に、それを実感することが出来るのだろうか。
『カルマ』が見えなくなりすぎたのは、この効率のよい社会の一つの弊害ではないかと思う。例えば、コンビニで、スーパーで、きれいに袋詰めされた商品を買う。その裏で安い賃金で働く人、商品の製造の際に出るゴミ、過程で出る化学物質、それらは自分達には見えない。
他人を踏みにじって、世界を汚して生きていることを実感できない、だから他人への配慮ができない。そんな『カルマの感覚』の欠如が、いわゆる『問題のある人』の数を増やしているのではないだろうか。
野中潔




