『昨日は○だけど今日は×』を読んで
[週刊朝日]
『下線部分のあきらくんの言葉は、どのような思いが込められたものでしょうか。二十字程度で答えなさい。』だが、あきらくんの心情を完璧に察するのは難しい。大まかに分かっていれば正解だとしても、何をもって大体分かっているとするのか、その基準を決めるのは常に難しい。
国語の問題の難しさ、そして同時に面白さでもあるのは、こういった基準の曖昧さであろう。『自分の解答はどうしてバツなんですか、こいつはマルなのに』自信を持って答えた解答をバツにされた憤りと共に先生に抗議しに行った人は、少なくないのではないだろうか。
だが、基準を決めるのが難しいのは何も国語の問題だけではない。基準を決める事の難しさには、『国』も手を焼いているのだ。
全国学力調査。文部科学省が実に四十三年ぶりに実施したと言う、文字通り学力の全国レベルでの調査である。
調査の対象となったのは、全国の小中学生実に二百万人以上。科目は国語と数学(算数)で、問題も文部科学省が作成している。そんな、いかにも『国の実力を測る厳正な調査』というイメージの調査だが、週刊朝日の派遣記者はその現場のひどさを記事にしている。
採点者は、時給1300円で雇われたフリーター中心の人々。事前に行われる研修は不十分、バイトの条件であった学力テストは曖昧に。
一番ひどいのはその採点基準で、マニュアルはあるものの許容範囲がどの程度かという細かさになると、採点者にまかされる部分が少なくなく、基準を決める権利を持つトップの人々も方針をころころ変え、採点のぶれは毎日補正されていくものの追いつかない。
しかも、その曖昧さのためにタイトルにもあるような『昨日は○だけど今日は×』といった事態が生まれてきているというのだ。
冒頭でも述べたとおり、基準を決めるという事は難しいことである。二百万人もの人を相手にしたテストでは尚更だろう。微妙な誤字、語法のぶれなどまでもを一刀両断の元に○×つけられるのは、コンピュータくらいのものではないかと思われる。
だからなのかどうなのか、自分がこの記事を読んで最初に感じたのは同情だった。あくまでアバウトな自分なんかは、別に国の平均なんて少しぐらいずれてもいいじゃないか、なんて思ってしまったりする。
だが、それで国民が納得しないというのも事実であり、国民に納得されないような方法を国が取っているのが問題だという事も事実である。
国民の信頼を失った『国』とは、もはや何の価値もなくなってしまうのではないだろうか。このような信頼を落とす国の実態は、残念なことにしょっちゅうニュースにのぼっている。こんなことでは、どんな呑気な人でも、例えばこんなことを言いたくなってくるだろう――『ちょいと国サン、ところで年金の件は本当に大丈夫なんでしょうね?』
野中 潔




